こけしとの出会いまーるい頭に細長い胴、単純に描かれた顔、縞模様だけの胴。
私の手元に来た“こけし”との出会いは 私が十九歳、市の職員を二年目で退職したときでした。
進学の夢を捨てきれず退職した際、職場の同僚たちから、記念品として土湯こけしを頂いたのです。 それが阿部広史さんのこけしでした。
当時は興味もなんとも無かったのですが、飾っておくうちにそれが家族の一員のように頭に浸み込んでいったのかもしれません。
夏休みに自宅に帰ったとき、高湯温泉のおじさんがこけしを持ってきて自慢していたのです。
なんと、お土産屋さんの仕事の合間にこけし作りを始めたとのことでした。
「こんのくんも卒業して福島に帰ったら、こけし作りを教えてあげる。」と言っていただいたのを今でも覚えています。
「自分でもこけしを作ることが出来るんだ。自分のつくったこけしを多くの人に見て頂いて、家族の一員のように迎えて頂いたら夢のよう。」
と思ったものでした。
夢を実現できたのは、福島に戻ってサラリーマンになって六年目頃。
当時の、市の観光課長さんから紹介されて、私の師匠、佐藤久弥さん(名人佐藤佐志馬さんの娘御婿)に弟子入りしました。
弟子というより、毎週末、材料代等を払って佐藤さんの隣で見よう見真似で夢中で木地を挽いていました。
十年間、週末は木地挽きでした。
当然、自宅にもロクロは設置して、思い立ったら深夜でも早朝でも挽いていました。
土湯こけし福島駅より西の方へバスで四十分、吾妻連峰の裾野に土湯温泉があります。
古くから湯治客が多く、簡素でひっそりとした温泉街。
こけしと水芭蕉の里と呼ばれ、橋の欄干からは大きなこけしが迎えてくれます。
伝統こけしは、俳聖、芭蕉の名著「奥の細道」に描かれた風土こそがふるさとです。
東北地方の温泉街の十ヵ所が伝統こけしの原産地です。その中で福島県を代表した“こけし”のふるさとが、土湯温泉です。
土湯こけしは、昔は “木ぼこ” “木でこ”と呼ばれ、農山村の女の子の玩具でした。
ロクロ模様その特徴は、頭が比較的小さく、頭の頂点に蛇の目がひとつついている。頭は胴にはめ込み式になっていて、胴模様はロクロ線一式のものと、ロクロ線を主にして簡単な縞模様や小さな花模様を描いたものもあります。
原型は棒人形。きっと、こけしの原型は、女の子が手で持つための棒で出来ている棒人形だったのでしょう。
女の子が手で持ったり、着物を着せて遊んだと思います。
ですから、原型は、女の子が手で握れるくらいのものだったに違いありません。
材料はミズキ伝統こけし作りは、東北の寒い温泉街にしか残らなかったのです。
それは、より良い材料に恵まれたせいもあります。
寒いと木目が締まってきめ細やかな丈夫な木になります。それは、堅くてつやがあって、こけしにはとっておきの材料です。
こけしの材料となる木は「ミズキ、イタヤカエデ、ビヤベラ、ジシャ、椿、桜」など木目があまり目立たない堅木が使われ、これらの材料は秋彼岸がすぎて樹木の活動が停止する頃をみはからって切り倒し、一年以上も乾燥して使用します。
こけしはお祝いの人形赤い水引手の模様が頭に描かれるこけしは、京都御所人形の「祝い物」の流れを引く人形です。
「子消し」と言って、昔、飢饉などで間引かれた子どもの供養や水子供養のため用いられたという風評もありますが、こけしに限っては当てはまりません。
かつては東北地方で、きぼこ、でこ、こけすんぼこ、などと方言で呼ばれてましたが、昭和十五年に「こけし」と統一呼称することが愛好家により決議されて現在に至ってます。
心の美人こけしは作った人の顔、家族に似るといわれます。
毎日、無心に顔を描いていると、家族の顔になってくるから不思議です。
こけしを通して表現できることはすばらしいことです。
そのうち、理想の女性の顔、夢の恋人だった人の顔にもしてみたいものです。
一〜二本玄関の棚にそっと飾って、心の中で微笑んでみたいものです。
心の美人に。
乙女心を映し出す最近、若い女性のこけし愛好者がふえている、との声が多く聞こえます。
今年四月に出版された「こけしガイドブック」が、発売後一ヶ月半で重版が決まったそうです。
背景には、雑貨マーケットの変化や乙女心の変化があるそうです。
昨年八月にオープンした、鎌倉の「コケーシカ」のオーナーは「戦前・戦後のこけしブームは年配のコレクターが中心。だがこけしは本来子どものおもちゃ。純粋なこけしの魅力を若い人に伝えたいと店をひらいた」と。
“こけしは乙女心を映し出す”
そう考えるとブームの復活は 女性の心に変化が生じた!ことかもしれません。
土湯こけし工人 近野明裕
posted by fukushima-fight at 12:46|
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